ここではないどこかへ
それは夢なのか現なのかもわからない出来事でした。 うだるような暑さの中で蜃気楼のように視界が揺れる。 ちょっとタンマ、とチームメイトに声をかけて山本は水道にかけよった。 蛇口に触れるとひんやり金属の冷たさが伝わって心地よい。少し生暖かい 水を手ですくってばしゃばしゃと顔に浴びせてから 右手をさまよわせる。 タオルが無かったので頭を振って水滴を落とし、ふと視線を感じて 振り向けば見知った人物。どうした?と笑いかけても 彼に表情の変化は無い。 今から帰るとこ?練習見学に来たの?俺に何か用事? 何を言っても彼は、ただゆるゆると力なく首を振るだけだった。 怪訝に思って近づく。彼は汗ひとつかいていない。 「ツナ?」 焦点の合っていないような瞳が、ゆらりと山本のほうに向けられる。 唇がわずかな震えをもって小さな小さなか細い声を発した。 ヒバリさんに、捨てられちゃった。 彼は抑揚の無い声でそう言った。 ---------------------------------------------------------- 「山本、やーまもと」 後ろから声をかけられ振り返ると、 白髪交じりの担任にいきなりずいっと鞄を差し出された。 「これ、沢田に届けてやってくれよ。」 「は?」 渡された鞄は確かにツナのものだった。 しかしそれをなぜ今、中途半端な休み時間に 渡されるのかと思い、問うと担任は頭を掻きながら続ける。 「なんか栄養失調で倒れたらしくてな。保健室で休ませてあるから、これ渡してもう 帰っていいぞって伝えてくれ。ちゃんと食うようにお前からも言ってやれよ」 「……え」 髪をぼりぼりと掻きながら言うだけ言って担任は、 じゃあ職員会議あるからと言って慌しく引き返してしまう。 山本は鞄をぎゅっと掴んで保健室のほうに足を向けた。 胸がひどくざわつく。小走りに廊下を進み、保健室に着くと山本が押すより早く その扉は開いた。 「おう」 真っ白な白衣、派手な柄のネクタイをつけた保険医が山本を見て片手を挙げる。 よっ、ひさしぶりだな、元気か。山本はそれに適当に頷いて、それより、 と声を荒げた。 「なぁ、ツナは?中にいる?」 「あーいるぜ。ったく男に貸すベッドはねーのによ」 「ツナどうしたんだよ?倒れたって、なんで」 「ただの栄養失調だって。どーせゲームにでも夢中で飯食うの忘れてたんだろ」 ガキは暇でいいねーなどと嫌味っぽく言って、シャマルはそのまま保健室を 後にした。一服する気だろう。両手を突っ込んだ白衣のポケットからたばこの箱が見えている。 それを見送ってから、山本はベッドに人の気配を感じて近寄った。 今にも折れてしまいそうな細い肩。上半身だけ起こしぼんやりと窓の外を見ていた。 「ツナ」 しばらくの沈黙の後、 小さな声で呼びかけると、ツナはそれに気づいて弾かれたように山本のを振り返った。 「山本!」 それはとても明るい声。 「おう……。大丈夫か?」 「うん、平気平気。見舞いに来てくれたの?ありがとう」 「これ鞄。もう帰っていいってさ。家でゆっくり休めって」 「ほんと?やった、午後の授業の宿題やってなかったんだ」 声を弾ませるツナに山本はあいまいに笑って返し、 ツナの髪の寝癖をそっと撫でつけてやった。 くすぐったそうに笑いながら ツナはベッドから降りて、それじゃあ、と山本を振り返る。 「俺、帰るね」 かばんを肩に引っさげて言ったツナに、送るよ、と言ったらツナは首を横に振った。 「……でも、危ないから」 「ううん。いい。心配してくれてありがと」 最後にもう一度、安心させるように微笑んで、 ツナは山本の制止を聞かずにガラリとドアを開ける。 俺なら、大丈夫だから、そう背中越しに言って、彼は小走りに駆け出した。 山本はぼんやりと立ったまま、ツナの行った方を見つめていた。 あの日、彼は。 たったあの一言を無機質な声で告げただけで、 それ以上の事を話そうとはしなかった。 ぞっとするほど感情の無かったあの日以降はあまりにも自然で。 いつものように笑って、笑って、ただ違ったのは、 雲雀との間に明らかに距離があったこと。 この一週間一度もツナは、雲雀に会っていないし、雲雀の存在すらツナの中には ないように、そう思わせた。 自分の知らないところで全てが、終わったのだ。山本はそう思って拳をきつく握る。 爪がぎりりと、食い込む。 「山本?どうしたの?」 首を傾けてのぞきこまれ、考え込んでいた山本ははっと我に返った。 今まで無音だった気がした空間、ミーンミーンと蝉の声が響いてうるさい。 「あ、いや……」 「早くしないとパン売り切れちゃうよ、行こ」 今日こそ木曜限定マフィン買うんだ、と笑ってツナは足を進め、 山本もそれについていく。 ふと覚える違和感。そうだ、毎週木曜は獄寺と二人だけだった。 ツナは雲雀と、いたから。 「あ」 短く発せられた声に山本が俯いていた顔をあげると、 ツナが立ち止まって一点を見つめている。 どうしたんだと問おうとして、山本は口を噤んだ。 ツナの視線を追えば、辛うじて見えるくらいの離れた場所だけれど、 他のものとは異質の雰囲気、一人だけ異なる制服だから、それは悪目立ちする。 黒い学ランをたなびかせて。 雲雀に殴り飛ばされた生徒の悲鳴がここまで聞こえてくるように感じた。 山本は黙ってツナに視線を戻す。声はかけられなかった。 かける言葉を知らなかった。 その背中が、泣いているように思えて。 「……ちょっと遠回りだけど、天気いいし、今日は中庭通っていこうか」 ツナは振り返って、何でもないような笑顔を浮かべた。 「沢田は今日も休みかー」 担任がペンで頭を掻いて、それから出席簿に斜線を引いた。 沢田綱吉と書かれた横の、その斜線は3つ連なっている。 「ツナ君どうしたの?風邪?」 笹川の心配そうな言葉には曖昧に返すことしかできない。 自分だって知らないのだ。 心配かけさせたくないのか、干渉されたくないのか、 ツナの気持ちは分からないけれど。 ペンを持ったままの手で白髪頭を掻き、 ちょっと様子見てきてくれよ、と言った担任に山本はすぐに頷いた。 放課後、何か見舞い品でも持っていこうかと思案したが、結局何も買わずに ツナの家へ向かう。一分一秒だってもったいない。今すぐ会いたい。 「あら、山本君」 息を切らして呼び鈴を鳴らせば、ツナとよく似た柔らかい笑顔が出迎えてくれた。 挨拶を返してすぐにツナのことを聞くと、ナナは頬に手を当てて困ったように首を傾けた。 「ツッ君ね、今誰とも会いたくないと思うの。しばらくそっとしておいてあげて」 「でも……!」 「何があったのか知らないけれど……。ごはんも食べてくれないのよ」 悲しそうに眉を寄せるナナに山本は胸が締め付けられる思いがした。 事情も何も知らぬままにただ心配しかできない心地の歯がゆさ、 彼はわかっているのだろうか。 ツナ、何やってるんだよお前。どうして一人で悲しんでるんだ。 どうして一人で泣いているんだ。 いてもたってもいられなくなって、制止するナナの声に構わずに家にあがりこんだ。 階段を一気に駆け上って、来慣れたツナの部屋をノックもせずに開ける。 カーテンもしめきってあって、電気もつけず薄ぼんやりと暗い部屋。 「ツナ……」 消え入りそうな声は彼に届かなかった。 布団の中、丸まって、ツナはぴくりともしない。 「ツナ、ツナ、どうしたんだよ、なぁ」 布団をめくればぼんやりとした瞳が山本に向けられた。 闇のように深いその瞳に、自分が映っているのかも分からない。 もう一度名前を呼べば、弱弱しい声で「山本」と一言だけ。 「ツナ、しっかりしろよ」 悲痛な顔で縋るように言われ、ツナは徐に上半身を起こす。 一度瞬きをしてはっきりと山本を見つめると、彼は少しほっとしたようだった。 「俺お前のこと心配でしょうがなくて、でもどうしていいか分かんなくて…… なぁ、ごはんちゃんと食ってないんだって?おばさん悲しんでたぞ」 ツナの思考は霞がかったようにぼんやりしていて、 山本の言葉はまるで夢の中で言われているような、そんな心地だった。 夢なのか現なのかも分からない。 「ごはん……」 あぁ、そうだ、食べなきゃ。母さん作ってくれてあった。 心配かけないようにちゃんとしっかりしなきゃ。 あれ、足ってどうやって動かすんだっけ今何してたんだっけ ヒバリさんこれから何すればいいんだっけ 俺何しなきゃいけないんだっけヒバリさんヒバリさん 「ツナ?」 黙ってしまって反応を返さないツナを、山本は不安そうに見る。 すると突然ツナがおぼつかない足取りでベッドから降り、机に駆け寄った。 ツナは引き出しを開け何かを取り出す。 力なくその場に座り込んで、びりり、と何かを裂くような音を部屋に響かせた。 山本は訝んで近寄り、ツナの手元を見る。 写真や、いつかうれしそうに見せてくれた、雲雀からのプレゼント。 その包装紙。彼にとってたいせつなもの。 何かにとりつかれたようにそれらを破るツナを、信じられないような思いで山本は見る。 「ツナ、お前、何やって……」 ツナは床に手をついて、引き裂かれたものに視線を落としながら、言った。 それは自分に言い聞かせるような、かなしい声音だった。 「忘れ、なきゃ」 「え?」 「もう、俺、いらない」 ヒバリさんにとって、もう俺はいらないんだから。だから。 「俺も、忘れなきゃ……忘れなきゃ」 ぎり、っと心臓を鷲掴みされたような苦しさが山本を襲う。ツナは 床についた手をきゅっと握った。 全部、あなたとの思い出、捨てなきゃ。あなたの中に俺の居場所はもう ないんだから。 なのに。 「どうしよう、忘れなきゃ、なのに」 思い出を破り捨てたって、目を閉じれば簡単に浮かんでくる。消えない。 どうしよう、どうしたらいい?山本に縋りついて、ツナは切羽詰った声をあげた。 山本はただ泣きそうに顔を歪ませるだけで何も答えてはくれない。 ふと左手の薬指にシンプルな指輪がはまっているのに目が止まって、 ツナはそれを引き抜こうとした。恋人の証なんてもう、自分はつけていてはいけない。 途端にきつく抱きしめられてツナは瞠目する。 「いいんだよ」 耳をくすぐる、あたたかい声。泣きそうな声。 「忘れなくていいんだよ」 優しく言われてツナは瞬いた。 霞がかっていた視界がクリアーになって、瞬きの度にぽろぽろと頬に冷たさが伝う。 涙なんてもうどれだけ流したか分からないのに。 ツナはきゅっと腕に力をこめて、山本の優しいぬくもりに縋りついた。 「山本、俺、ほんとはね、」 叶わない願いが胸の中に宿ったまま、いつまでも消えない。 ほんとはずっと好きでいてほしかった。 ずっと一緒にいたかった。 そんなの無理だって分かってるけど、 ほんとはずっとずっと隣で笑っていてほしかった。 ヒバリさん、ヒバリさん、好きなんです、ヒバリさん。 「……っ」 せきをきったようにツナは、声を上げて泣いた。 「人の気持ちってさ、難しいもんだよな。熱したもんはいつか必ず冷めるし、 始まりがありゃ終りもある」 ことん、と紅茶をテーブルに置き、 雲雀は口元だけに笑みを浮かべて声のほうを振り返った。 その人物は壁に凭れ掛かって、人当たりの良さそうな笑みを浮かべている。 「そうだね、君の言う通りだ」 「永遠に続くもんなんてめったにねぇと思うんだよね、俺。 分かってんだけどさ、」 竹刀が音をたてて空を切った。きらりと刀身を光らせた日本刀を構えて、 笑みを引っ込めた山本は人でも殺しそうな眼差しで雲雀を睨む。雲雀は 何も言わずにそれを受ける。 「俺、どうしても許せねーんだよ、お前だけは」 雲雀はくっとのどの奥で笑っただけで、獲物を取り出そうとしない。 それがよりいっそう山本を苛立たせた。 強く舌打ちし、日本刀でビュっと空を切る。 「ツナがどんだけ傷ついてんのか知ってんのかよ!ツナがどんだけ、 一人で泣いたか!」 自分に縋りついてきた小さな手。たった一人で彼がどれだけ 悲しんでいたのか。思いを馳せれば、胸がきつくしめつけられる。 山本は声を荒げた。雲雀はトンファーを出すそぶりすら見せず、 ただ得体の知れない笑みを浮かべるだけ。 「知っているよ」 凛とした声が静かな室内に響く。 「かわいそうに綱吉。きっといっぱい泣いたね。いっぱい傷ついたね」 山本には最初、雲雀が何を言っているのか分からなかった。 どうしようもなく気味の悪い心地がし、 一歩後ずさりたい衝動を山本はかろうじて抑えた。 「この前すれ違った時も、かわいそうなくらい怯えて。あぁ、 そういえば少し痩せていたね。食事ものどを通らないのかな」 「……てめぇのせいだろ」 低い声で吐き捨てるように言っても雲雀は動じず、 窓の外をぼんやりと見つめた。 夕日が沈む。 静かに呟かれた言葉、耳に届いて山本は目を瞠る。 「そう、あの子をこんなに傷つけることができるのは、僕だけだ」 心底満足気な笑みを浮かべた雲雀に吐き気すら覚えた。 もともと雲雀はつかみどころの無い奴だ。 考えていることも何も分かりはしない。 雲雀の持つ、自分には到底理解できない感情が、少し垣間見れたように感じた。 雲雀は思い出す。別れを告げたときのツナの表情。 心の底から苦しんでいる、なのに何も言えないでいる、あの表情。 かわいいかわいい僕の綱吉。これからもずっと、僕だけの為に泣いて。 僕だけの為に傷ついて。 「あんた、頭おかしーよ」 かろうじて言葉を搾り出すが、雲雀はそれに頓着しないようだった。 一度時計に視線を移してからさらに一言。 「そして綱吉を幸せにできるのも、僕だけだ」 バタン、と扉が開いて山本ははっとする。 はりつめた空気を破ったその音のほうに顔を向けると、 不安げな顔したツナが瞳を揺らし、驚いたように山本を見た。 「山本……?なんでここに」 「お前こそ、なんで……!どうして来た!」 気圧されてツナはよりいっそう不安げな顔をし、小さく震える声を出した。 「ヒバリさんに、電話、で、呼ばれて」 「な……」 山本は目を瞠る。あんなにひどいことされて、なのに呼び出されればすぐに 来るツナの気持ちが理解できなかった。 「綱吉」 静かな声が響いて、ツナはびくりと肩を揺らす。 おそるおそるそちらを見て、瞳にいっぱいの不安をためて。 「ヒバリ、さん……」 「おいで、綱吉」 だめだ。行くな。 言葉は声にならなかった。行ってはいけない。そんな奴のところへ。 山本の思いに気付かず、ツナは一歩一歩雲雀に近づく。 「痩せたね綱吉。ちゃんと食べなくちゃだめだよ」 「あ、あの、ヒバリさん……俺」 頬をそっと優しく撫でられてツナはそこを動けない。 大きな瞳が揺れる。言いたい事はあったと思うけれど、何も言葉が浮かばない。 「好きだよ、綱吉」 ツナはひゅっと息を呑んだ。優しい瞳に見つめられて視線がそらせない。 嘘。そんなことあるわけない。だって俺は振られた。振られた。 「……本当?」 「うん。だから戻っておいで」 これからはずっと一緒にいようね、 そう言って、雲雀はそっとツナを抱き寄せた。あとからあとからこぼれる涙が、 雲雀のワイシャツに染みを作る。 嗚咽を漏らすツナの髪をそっと撫でながら、雲雀は山本に視線を移した。 薄気味の悪い視線に山本は息を呑む。 カラン、と床に落ちた日本刀が竹刀に形を変える。 ひどく殺気立っているような、ひどく悲しんでいるような、哀れんでいるような、 そんな複雑な表情が山本の顔には浮かんでいた。 |