「今晩は、ムッシュー。こんな時間に一体どうしたと言うのかね?」
モノクルごしにローランサンを見下ろしながら、賢者はあからさまに笑いを堪えた口調で尋ねた。
「よお片眼鏡」
「サヴァンだよ」
「それも本名じゃねぇくせに」
「通り名にも美学があると言うことだよ」
「知らねーよ。そういうビガクとやらはイヴェールと話せばいいだろ」
何で俺のところに来るんだよ、とぶすったれた声で言ってベンチの上で抱えた膝頭に顎を乗せるローランサンの左頬は、見ていて痛々しい程に腫れている。
「また追い出されたのかね」
「違うっ追い出されたわけじゃなくて自分から出てきたん……いってぇ!」
意地になって喚くローランサンの姿は永きを生きいくつもの地平線を見送った賢者から見れば仔犬が吼えているようなものだ。ぶに、と頬を引っぱるとローランサンが悲鳴を上げて手を払いのける。
「てっめぇ……何しやがんだ!?」
「相変わらず騒がしいね君は。元気で何よりだ」
よりにもよって左頬を抓るか。そしてどの口でそうのたまうのか。敵意を剥き出しにして鼻筋にきつく皺を刻んだローランサンを賢者は面白そうに見遣る。精一杯の虚勢も虚しく受け流されたローランサンは忌々しげに舌打ちを打ってベンチから立ち上がる。
「おや、帰るのかね」
「……あんたと話してても全然面白くねぇ」
「私は楽しいがね。君らはつくづく、見ていて飽きない」
「ふざけんな。観察されるのなんかまっぴらごめんだぜ」
別れの挨拶もせずに足早に去っていく背に届かないように、賢者は一つ溜め息を落とす。
「君はそう言うがねムッシュー・ローランサン……この世界もまた、逆らえぬ彼女の箱庭なのだよ。そして君もまた彼女に絡め取られる歯車に組み込まれているのだ……組上げられた枠組みの中で君がどう足掻くのか……少々興味はあるがね」
黒を纏った後姿が完全に見えなくなった後、遠くから足早に近づいてくる足音を聞きつけて、賢者は先とは種類の違う息を吐く。モノクルの奥で細められた目は、主人が忙しなく周囲を見回す度に揺れる銀糸を捕らえていた。
「今晩は、ムッシュー。そんなに急いで、誰かをお探しかな?」