角を曲がった瞬間に、声を上げそうになった。人がいたからだ。昼でも人通りが少ないこの道に、こんな日が暮れかけてる時間帯に人がいることなんて滅多にない。驚きのあまり固まってしまった体を動かそうとした時、その人が私の方に顔を向けた。あたりは随分と暗くなっていたが、揺れた髪がキャラメル色だということは分かった。でも、それ以上に、心に焼き付いたのはその瞳だった。私がはっと息を呑んだと同時に、その瞳が緩められた。

「もしかして、日本人?」
「え?あ、はい」

男の人にしては高めの、透き通った声だった。たった一言喋っただけなのに、穏やかでほっとするような空気が伝わってくる。

「そうなんだ。じゃあ俺とおんなじだね」

その人はにこりと微笑んだ。イタリアに来て半年くらいになる。その間ほとんど日本語に触れていなかった私は、自然に顔が綻んだ。異国の地で聞く母国の言語というのはこんなにも心地よいものだったのか。いや、多分それだけじゃなくて、この人の纏っている雰囲気のためでもあるのだろう。一緒にいると安心するような、うまくは言えないけどそんな感じがする。

「もうすぐ暗くなるのにこんな所にいると危ないよ。観光客?」
「あ、いえ。えっと、私、パティシエになるのが夢で…だから、お菓子の勉強するために半年くらい前からイタリアに来てるんです」
「一人で?」
「はい」
「へえ…すごいね」

本当に感心してくれているようで、私のことをじっと見つめている。恥ずかしくてそっと視線を逸らした。

「全然、すごくなんかないですよ。私なんかまだまだで…修業中です」
「夢のためにちゃんと行動出来るのはそれだけですごいことだよ。尊敬するなあ、そういう人」

どくん、と心臓が動いた。頬が熱くなった気がする。そんな風に褒められたのは初めてだった。

「あ、そろそろほんとに暗くなってきたな…って、引き留めてんのは俺か。家は近いの?」
「えっと…すぐそこです」
「そっか。うん、でも女の子一人で暗い道歩かせるわけにもいかないし…送るよ」
「えっ?いや、もうほんとすぐ近くなんで大丈夫です!」
「遠慮しないで。ちょうど暇を持て余してたとこだしさ」
「んー…でも…」
「ね?」
「…じゃあ、お願いします」

今思うと、どうしてその人を信用したのか分からない。初めて会った知らない男の人に家まで送ってもらうなんて、警戒心がないにもほどがある。でも、その時の私は何故か大丈夫だと思っていた。この人なら、信じられると思ったのだ。私は既に惹かれていたのかもしれない。その人の、大空のようなやさしい心に。



「あの、綱吉さんはどうしてイタリアに来たんですか?」

お互いに軽く自己紹介を済ませた後、ふと疑問に思った私はそう尋ねた。

「んー…仕事、かな」

彼は困ったように微笑んだ。

「俺はちゃんみたいに強くなかったから…本当はちょっと迷ってるんだ、今でも」

暗い道を、並んで歩いている。もう慣れたいつもの道のはずなのに、どこか違うように見えた。彼がまたそっと口を開く。

「情けないよな…ほんと。こんな俺でもついてきてくれる人がいるってのに、俺自身は昔と何も変わらない…弱いままだ。このままじゃ駄目だって、分かってるんだけど」

私じゃなくて、自分に言い聞かせてるみたいだ。思わず彼を抱き締めそうになった。そうしないと壊れてしまいそうな気がしたのだ。ふっ、と一番最初に見た瞳がよぎった。

「そんなこと、ないと思います」
「え?」

足を止める。口が勝手に動いていた。

「綱吉さんは、弱い自分をちゃんと見つめてるじゃないですか。見ないふりをすることだって出来るのに、悩んで、迷って、受け止めようとしてるじゃないですか。それだけで…綱吉さんはすごく強い人だと思います」

声が震える。涙が出そうだった。誰かのためにこんなにも何かしてあげたいと思うことなんて今までになかった。ぐっと唇を噛み締めて下を向いていると、ふわりと頭に何かが触れた。ゆっくりと顔を上げると、彼が笑っていた。

「ありがとう」

私の頭を軽く撫でて、やさしさに満ちた声で言った。

「君に出会えてよかった」



それから私は彼と二、三度会って他愛もない話をした。と言っても私から会いに行ったのではなく、私が家に帰る道でたまに彼が待っているという形だった。何度会っても、彼は必要以上のことを話さなかった。彼が何の仕事をしているのか、どこに住んでいるのか、私は何も知らなかった。聞いても微笑んではぐらかされるだけだ。彼と会って、話して、別れて、自分のベッドで眠りにつく前に思い出すのは、さっきまで見ていた彼の笑顔ではなく、いつも一番最初の瞳だった。あの瞳がどうしても忘れられない。何故かはわからない。思い出すたびに胸がぎゅっとして、泣きそうになる。あの時、あの場所で、私と出会う前に、彼は何を思っていたのだろう。



しばらく、彼は現れなかった。連絡を取ろうとしても何も知らないから何も出来ない。歯痒い思いをしたまま二週間ほど経ったある日、いつものように家に向かっていると、視界の端にキャラメル色を捉えた。

「綱吉さん…!」

私が駆け寄ると、彼はゆっくりと振り向いた。暗がりのせいかもしれないが、心なしか顔色が悪い気がする。

ちゃん」

その時、どくんと心臓が動いた。いつかみたいに頬が熱くなったわけじゃない。何か嫌な予感がした。

「あ…最近顔を見ないから、どうしたんだろうって思ってたんですよ」
「ごめん、ちょっと仕事が立て込んでてさ」

心臓の音が大きくなっていく。久しぶりに顔を見れて嬉しいはずなのに、うまく笑えない。

「大丈夫なんですか?」
「うん、一段落ついたから」
「そうですか…」

彼が悪戯っぽく笑った。

「俺に会えなくて寂しかった?」
「なっ…もう、やめてくださいよ!」
「あはは、ごめんごめん」

落ち着きを取り戻して、少し笑えた気がする。彼が、気を使ってくれたのだろうか。いや、そういうのではなくて、これが彼なのだ。私に自然と笑顔をくれる。少しの間話をしていると、彼がちらりと時計を見た。

「ああ、悪いけどもう行かなくちゃ」
「え…」
「じゃあ、またね。ちゃん」

彼はにこりと微笑んで軽く手を振って踵を返した。いつもどおりのはずなのに。あの瞳がよぎる。気付いた瞬間には彼の腕を掴んでいた。

ちゃん…?」

また心臓の音が大きくなる。このまま別れてしまったら、きっと後悔するに違いない。何故そう思ったのだろう。私は呟くように言った。

「また、会えますか?」

彼が顔を背けた。答えてください。どうして何も言ってくれないんですか。いつもの笑顔を見せてください。少しだけ、腕を引かれた。彼の顔を見上げてはっとする。彼の腕を掴んでいた手が、力無く離れた。

「君に出会えて、本当によかった」

そう言って、彼は暗闇の中へ歩いていった。一番最初に見た時と同じ瞳をしていた。



そしてもう、彼に会うことはなかった。彼と会わなくなっても、私の生活は何も変わらなかった。出会ってから少ししか経っていないのだから当然と言えば当然なのだが、それがどうしても悲しかった。私はいつものように店に行って、お菓子を作って、夕方には帰宅する。最近、一緒に働いているイタリア人の友達にボーイフレンドが出来たそうだ。店の近くのパン屋のおじさんは今日も陽気に大笑いしていた。近所の若夫婦にはかわいい赤ちゃんが生まれた。こんな風に平和な面もあるが物騒な世の中で、ついこの間、このあたりを仕切っていたマフィアのボスが殺されたらしいというニュースが入った。しばらくは町中がその話題でもちきりだった。それから、私も大好きだった花屋のおばあさんが病気で亡くなった。いつも笑顔で、みんなから好かれていた優しい人だった。世の中は廻っている。たくさんの人が、たくさんの思いを抱えて、たくさんのことを経験しながら生きている。そして、いつかはみんな死んでいく。今になって、やっと私はあの瞳の意味が少しだけ分かったような気がする。あの時、彼は何かを覚悟していたのだ。突き付けられた運命を受け入れようとしていたのだ。私はその瞳に惹かれた。その瞳に溢れている覚悟の重さに囚われた。ただ、それが何の覚悟なのかは分からない。仕事のことなのか、明日のことなのか、人生のことなのか、それとももっと深くて重い命のような―。最後のひとつは考えたくもなかった。けれど、そんなはずはないと思うたびに心の底では正反対のことが疼き出す。まるで、出会った瞬間からこうなることを知っていたかのように。
もしも、彼にもう二度と会えなくても、私は忘れないだろう。彼の笑顔も、あの瞳も、最後の言葉も。何も忘れない。忘れられない。恋だなんて生温いものじゃない。それだけは分かっている。長い人生から見ればたった一瞬のことだったかもしれない。それでも、私にとってはどんな永遠よりも価値のある一瞬だった。だからこそ私は、どうしてあの時彼の腕を離してしまったのだろうかと思うのだ。人が大切なものの存在に気付くのは、いつだってそれを無くしてからだ。どうして無くす前に気付かなかったのだろうと無くしてから後悔する。あの時私は、後悔すると分かっていながら彼の腕を離した。彼の瞳の強さに、私の想いは敵わなかった。でも今ならきっと、同じ間違いを犯そうとはしない。もしも、彼にもう一度会えるのなら、私は彼の最後の言葉をそのまま返すのだろう。もう腕は離さない。後悔は、したくないから。





「あなたに出会えて、本当によかった」

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