「待ってるから」

そう言ったの瞳が、脳裏にちらついて離れない。約束の時間まであと一時間、つまりは六十分、たったの三千六百秒。
すべてを決断するにはあまりにも短い。

そもそも俺達は出会うべきじゃなかった。は大財閥の一人娘で、俺はボンゴレのヒットマンだ。財閥とマフィアは昔から切っても切れない関係があるが、お互い必要以上に関わり合ってはいけない。裏と表のバランスをとるための、暗黙の了解だ。今までずっと、そうしてきた。運命など信じる気はさらさらない。二度目にパーティで出会ってしまったのも単なる偶然だろう。だから俺は、三度目にはあいつの存在を忘れているべきだった。今更後悔しても遅いことなど分かっている。過去には戻れない。進むしかない。でも、あいつに出会えてよかったと思っている自分がいるのも事実で。あいつと一緒にいる資格がないのも事実だった。このままあいつの望む通りに攫っていくのは容易いことだ。だが、本当にそれでいいのだろうか。あいつには家が、俺にはボンゴレがある。捨てればもう二度と元には戻れない。だから俺は―いや、違う。本当はそんなことで躊躇してるんじゃない。俺が一歩踏み出せない理由は別にある。

「私の全部、リボーンのものにして」

の言葉が甦る。それは痛いくらいに魅惑的な言葉だった。こんなにも一人の女を欲しいと思ったことはない。いつの間にか俺の中に入り込んで、手放せなくなっていた。あいつの言う通り、すべてを俺のものにできたらどんなにいいだろう。けれど、すべてを俺のものにするということは、あいつからすべてを奪うということだ。自由も、未来も、幸せさえも。そこで俺の足は止まる。愛していた、馬鹿みたいに。必要だ、どうしても。奪えるものなら奪ってしまいたい。俺の心は可笑しいくらいあいつを欲している。それでも。あいつからすべてを奪うことなんて、俺にはできない。こちらの道を選んでしまえば、きっといつかは後悔するだろう。その時にはもう遅いのだ。自由と未来を奪ってしまったら、あいつがいくら泣いたってもう二度と返してやれない。そんなのは御免だ。あいつには、幸せに、笑って生きていってほしい。君が幸せになるためなら、俺の心なんてどうなったっていい。かちり、と時計の針の音が響いた。












地面の底から震わすように、時計の鐘の音が鳴る。約束の時間はもうとっくに過ぎているのに、動けなかった。まだ信じてるんだ、私は。待ってたって来るはずないけれど、それでも待っていたいと思ってる。ああ、でも、きっと彼は来ないだろう。本当は分かってる、彼が時間に遅れるような人じゃないってことくらい。すとん、と地面に腰を下ろした。風が吹く。その冷たさも今の私には感じられない。心が空っぽっていうのは、こういうことを言うのだろう。

「お前は黙って俺の隣にいればいいんだよ」

いつだったか、リボーンが言った言葉が頭の中で響いた。いつも偉そうで俺様だったから、たまにそっけなく言ってくれる言葉がすごく嬉しかった。初めて愛を教えてくれた存在で、かけがえのない人だった。だから、どこかの財閥の跡取りとの婚約の話も、私には考えられないことだった。リボーン以外の人と一緒になるなんて有り得ないことだと思ってた。でも、リボーンにはボンゴレがある。簡単に見捨てたりはしないだろう。私は、そんなリボーンを好きになったんだから。けれど、私がリボーンの隣にいるには逃げるしかなかった。父様が勧める婚約を拒む方法はそれだけだ。私だってリボーンが隣にいてほしい。だから、一緒に逃げてほしかった。本当にそれだけしかなかった。リボーンにとって、ボンゴレがどれくらい大切なものかなんて分かってる。私は弱い女だ。来週に控えた婚約発表の前に、こんな決断くらいしかできない。でもそれが、私にできるすべてのことだった。これはひとつの賭けだ。もしもリボーンが来なければ、私は―。足に力を込めて立ち上がる。マフラーを巻き直しながら歩き出した。きっともう二度と、彼に会うことはないんだろう。瞳がどうしようもないくらい熱くなる。彼を責めるつもりなんてない。恨むべきは、こんな結末を用意した運命だと思う。本当に愛してた。私には彼が必要だった。彼のためなら、家も、地位も、何もかも捨てられた。だけどもう叶わない。いちばん守りたかったものを捨てなくちゃならない。私は彼を、忘れないだろう。何があったって、忘れられるはずがない。胸が焼けつくような、痛いくらいのあの想いを。
さようなら、愛しい人。あなたと一緒にいられるなら、死んだってよかったのに。







心逃避行


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