昨日の夜、夢を見た。予知夢などという大それたものではないけれど、どちらかと言えばそれに近い夢だ。はっと目を覚ますと、随分呼吸が荒かった。俺には超直感とかいうものがあるらしく、ごくまれに無意識のうちに何かを悟ることがある。呼吸を整えながら俺は考えた。今見た夢は、現実になるのだろうか。疲れが溜まってうなされただけじゃないのか。けれど、俺の頭は意外にも冷静に受け止めていた。部屋の窓を開けると、夜中の冷たい空気が頬を掠めた。俺のこの超直感が外れたことは、残念ながら、一度もない。



仕事を終えて、久々に外を歩く。護衛を撒いてきてしまったから後で怒られるかもしれない。今は一人になりたかった。ゆっくりと考えたかったのだ。やはり頭は冷静だった。怖くないと言えば嘘になる。でも、今頭の中にあるのは恐怖よりも後悔。俺はどうしてこんな世界に足を踏み入れてしまったんだ。あの時一歩踏み出さなければこんなことにはならなかったかもしれないのに。今更嘆くなんて、俺は本当にどうしようもない人間だ。こんなこと、ファミリーにはとても言えない。俺のことを信じてくれている人達に、心配なんかかけたくない。後悔が渦となって俺を取り巻く。あの時選んだ一歩は、どんな道のりよりも重かった。受け止めよう。覚悟しよう。例えそれが俺の弱さから目を背けているだけだとしても。
その時、人の気配がした。ぱっと目をやると、女の子が立っているのが見えた。黒い髪に、イタリアではあまり見ない顔立ち。でも俺は、こういう顔立ちの人種をよく知っている。気持ちを切り替えようと、慌てて笑顔をつくった。

「もしかして、日本人?」
「え?あ、はい」

女の子特有の高い声。かなりびっくりしているらしく、表情が固まっていたので、落ち着かせようと出来るだけ優しい声で喋りかけた。

「そうなんだ。じゃあ俺とおんなじだね」

にこりと笑いかけると、女の子も少しリラックスしたらしく微笑みを返してくれた。ふと、あたりを見回す。ここは町の外れのほうで、人通りはほとんどないと言っていい。女の子一人でここを歩くのはあまりにも危険すぎる。

「もうすぐ暗くなるのにこんなところにいると危ないよ。観光客?」
「あ、いえ。えっと、私パティシエになるのが夢で…だからお菓子の勉強するために半年くらい前からイタリアに来てるんです」
「一人で?」
「はい」
「へえ…すごいね」

心からの言葉だった。俺とそんなに年は変わらないように見えるのに、夢のために単身外国に行くなんてそうそう出来ることじゃない。少なくとも、俺なんかよりはよっぽどしっかりした芯を持っていると思う。

「全然、すごくなんかないですよ。私なんかまだまだで…修業中です」
「夢のためにちゃんと行動出来るのは、それだけですごいことだよ。尊敬するなあ、そういう人」

俺にもそういう強い想いがあれば、こんなことにはならなかったかもしれない。また感傷に浸ってしまいそうだったので、話題を変えた。

「あ、そろそろほんとに暗くなってきたな…って、引き留めてんのは俺か。家は近いの?」
「えっと…すぐそこです」
「そっか。うん、でも女の子一人で暗い道歩かせるわけにもいかないし…送るよ」
「えっ?いや、もうほんとすぐ近くなんで大丈夫です!」
「遠慮しないで。ちょうど暇を持て余してたとこだしさ」
「んー…でも…」
「ね?」
「…じゃあ、お願いします」

俺はその時はまだ、自分の気持ちでいっぱいいっぱいだった。この女の子を送っていこうと思ったのだって、気を紛らわせようとしただけにすぎない。とても自分勝手だった。偶然出会った黒髪の女の子が俺にとってどういう存在になるのかなんて考えてもいなかった。



「あの、綱吉さんはどうしてイタリアに来たんですか?」

肩書きがばれないように一応名前だけ名乗った後のこの質問。

「んー…仕事、かな」

苦笑して、何故かぽつりと本音を加えた。

「俺はちゃんみたいに強くなかったから…本当はちょっと迷ってるんだ、今でも」

どうして初めて会った女の子にこんなことを言ってるんだろう。

「情けないよな…ほんと。こんな俺でもついてきてくれる人がいるってのに、俺自身は昔と何も変わらない…弱いままだ。このままじゃ駄目だって、分かってるんだけど」

ただ言葉にしたかっただけだったんだと思う。だから答えなんて、求めてなかった。

「そんなこと、ないと思います」
「え?」

彼女の足が止まる。思わず彼女の顔を見つめた。

「綱吉さんは、弱い自分をちゃんと見つめてるじゃないですか。見ないふりをすることだって出来るのに、悩んで、迷って、受け止めようとしてるじゃないですか。それだけで…綱吉さんはすごく強い人だと思います」

彼女の声は震えている。俺は何も言えなかった。彼女の言葉が心に刺さって、もやもやしていた黒い塊が溶かされていく気がした。彼女に出会っていなかったら、俺はこんな気持ちになってはいなかっただろう。その時自分でも気付いていないほどの絶望の底にいた俺にとって、彼女の精一杯の言葉はひどく胸に沁みるものだった。そっ、と手を伸ばす。腕を強く引き寄せて抱き締めようとしているのに気付いて、手が体に触れる一瞬前に対象を頭に変えた。

「ありがとう」

誰かに本気でお礼を言うなんて、いつ振りだろうか。

「君に出会えてよかった」



それから俺は二、三度彼女に会いに行った。彼女に会って、喋っている間だけは俺に訪れる運命を忘れることが出来た。俺は、自分のことを何も話さなかった。あまりにも近付いてしまうと、きっと離れられなくなると思ったからだ。それに、彼女に俺の素性を知られたくなかった。言ってしまえば、この一時の安らぎがなくなってしまうような気がして。それほどまでに、彼女に惹かれていた。ボンゴレのボスとしての自分ではなく、沢田綱吉としての俺を見てほしかった。刻一刻と忍び寄ってくるその瞬間の重圧に耐えるには、どうしてもそれが必要だったのだ。俺はやっぱり臆病で弱いままだ。だけど、彼女の存在があったから、俺は自分の弱さを見つめることの大切さを知った。それを知ることで、踏み出した一歩を後悔せずに済むような気がした。



そう感じてからすぐ、マフィア間の抗争が激化した。俺の周りの人がたくさん死んだ。俺も、たくさんの人を殺した。いつからか、人を殺しても泣かなくなっていた。戦いの場で、たった一瞬だけ彼女を思ったことがある。彼女は俺が今こんなことをしていると知ったら、どうするのだろう。軽蔑されるかもしれない。「人殺し」と罵られるかもしれない。分かっているのはただひとつ、彼女はきっと涙を流す。抗争の大きな山場を終えて一息ついた頃、俺はようやく覚悟を決めた。次で、彼女に会うのは最後にしよう。どうせ運命の日はすぐそこだ。いつものように他愛もない話をして、笑って別れよう。最後に、彼女の存在を俺の心に刻みつけよう。忘れない。もう会えないけれど、忘れたりしない。


いつもの道で待っていると、いつものように彼女の気配を感じた。
  
「綱吉さん…!」

ゆっくり顔を向けると、彼女が駆け寄ってくる。

ちゃん」

俺が名前を呼ぶと、彼女の顔色が少し変わった。思い詰めたような、張り詰めたような、見たことのない表情。長い間何も連絡していなかったから、きっと心配をかけたのだろう。

「あ…最近顔を見ないから、どうしたんだろうって思ってたんですよ」
「ごめん、ちょっと仕事が立て込んでてさ」

彼女の表情はまだ引きつっている。そんな顔をされると覚悟が鈍ってしまいそうだ。

「大丈夫なんですか?」
「うん、一段落ついたから」
「そうですか…」

わざと声にからかいの色を含ませた。

「俺に会えなくて寂しかった?」
「なっ…もう、やめてくださいよ!」
「あはは、ごめんごめん」

やっと彼女は笑った。この笑顔を、もう二度と見ることはない。あんまりたくさん話すとどうしようもなくなりそうだったから、予定なんか何もないのに腕時計を見る振りをした。

「ああ、悪いけどもう行かなくちゃ」
「え…」
「じゃあ、またね。ちゃん」

出来るだけいつもどおりに微笑んで、手を振って背を向けた。さようなら。俺に勇気をくれた人。覚悟を決めさせてくれた人。俺が、心から大切だと思えた人。不意に、腕を引かれた。驚いて振り返る。

ちゃん…?」

どくんと心臓が動いた。やめてくれ。俺の覚悟を鈍らせないでくれ。俺はまだまだ弱い人間だから、簡単に揺らいでしまう。彼女の呟きが、いやにはっきり聞こえた。

「また、会えますか?」

思わず顔を背けてしまった。何も言えない。伝えたいことがありすぎて、彼女を抱き締めそうになった。そう出来たら、どんなによかっただろう。でも、駄目だ。俺は、この覚悟に彼女を巻き込んではいけない。彼女が俺のために涙を流す可能性が少しでもあるのなら、そんなものは消し去ってしまわないといけない。俺のエゴだって分かってる。だからせめて、一言だけ言わせてほしい。彼女が顔を上げた。

「君に出会えて、本当によかった」

言い終わってからすぐさま歩き出した。振り返ったりしない。俺の覚悟は、もう揺るがない。この言葉の本当の意味なんて、知らなくていいから。



真っ赤に染まった視界の端に、彼女の笑顔が見えた気がした。自然と、口角が上がる。こんな瞬間にさえ彼女のことを思っているなんて、本当に本気だったのかもしれない。だけどもう、全て終わってしまった。もう少し早く出会えていたら、何かが変わっていたのだろうか。それでも俺は思うのだ。彼女がこの先、たった一秒でも俺のことを思い出してくれたなら、それだけで俺が彼女と出会えた価値は十分にある。素性を隠して嘘ばかり吐いていた俺が彼女に言ったあの言葉は、俺にとってどんな愛の言葉よりも意味のある言葉だった。忘れてくれてもいい。ただあの瞬間にだけでも、俺の声が届いていれば、それでいい。





最期に君に出会えて、本当によかった」

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