寒い寒い夜でした。月も凍りそうでした。空は綺麗に澄み渡って、空気は冷たく皮膚を刺しました。痺れた指先を吐息であたためて、地面に落ちる長い影を見つめていました。月明かりは朧げで、それがかえって優しさを感じさせました。すると突然影が止まったので、私は思わず顔を上げました。前を歩いていた彼がこちらを向いて立ち止まっていました。表情は暗くて見えません。何度か瞬きを繰り返してみても、よく見えないままでした。私はゆっくりと歩み寄りながら、脈絡のないことを聞きました。

「寒くない?」
「…ああ」
「そう」

手が届くくらいの距離まで近付いても、彼は動こうとしませんでした。けれど理由は聞きません。きっと私と同じようなことを考えていたのでしょう。私たちはしばらくの間そのまま何も言わず目も合わさずに佇んでいました。そしてその瞬間にそうなることがずっと前から決まっていたかのように、彼の手が私の頬に触れました。すこし冷たい指先でした。そのときになって初めて、私は彼の顔を見ました。彼も私の顔を見ました。彼は何かを言おうとして口を開きかけましたが、何も言わずに私を抱き締めました。温もりが、徐々に伝わってきます。それに比例するように涙が込み上げてきましたが、零さないように必死で堪えました。彼には気付かれたくありませんでした。さっきまであんなにも寒かったのが嘘のように、とてもあたたかくなってきました。抱き締められたまま彼の胸に顔を埋めて鼓動を聞いていました。



不意に彼が私の名前を呼びました。呼んだというよりも呟いたというほうが正しいかもしれません。それでもその声は確かに届いたので、私は返事の代わりに顔を上げました。彼はいつもよりも難しい顔をして私を見つめていました。私が手を伸ばして彼の頬に触れようとすると、それを遮るようにその手を掴みました。ひんやりしているのにどこかあたたかい彼の手に力が入って、小さな声が聞こえました。

「…俺は、本当は、」

そこまで言って、彼は口を閉ざしました。しかし私はなんとなく、彼が言おうとしたことも途中で止めた理由も分かってしまいました。彼は普段は口が悪くてぶっきらぼうなところもあるけれど、とても、とても優しい人なのです。きっとこれ以上、私を自分に縛りつけないように。その優しさは痛いくらいに分かっていたけれど、私は縛ってほしかったのです。この感情を、私の心に刻みつけておいてほしかったのです。想いは風化しないだなんて、ただの綺麗事でしかないのだから。

「悪かった」

彼は小さく顔を歪めて私を見つめました。彼がぱっと私の手を離した瞬間、私は彼の背中に腕を回して力を込めて抱き締めました。彼の体が驚いたように揺らぎます。今まで私はどれだけの想いを彼に伝えて、どれだけの想いを受け取ったのでしょうか。どれだけ彼に抱き締められたのでしょうか。すべてを鮮明に思い出せるわけではありません。でも、きっとすべてを忘れているわけでもないのです。それだけははっきりと、分かっています。私は今、この想いが彼に伝わるように祈りながら、ゆっくりと口を開きました。

「お願いだから、謝らないで。私のことを後悔して、自分を責めたりしないで。隼人には、自分の決めた道を最後まで進んでほしいの。私のこと忘れて、なんて言えないけど…隼人が私を忘れても、私は隼人のこと忘れないよ。絶対に。隼人に会えてよかった。隼人のことを好きになれて、本当によかった。だから、だから私に…後悔なんて、させないで」

彼の瞳がふわりと緩みました。私の髪を柔らかく撫でて、強く、強く抱き締めました。

「忘れねえよ」

その言葉は私にとって、この世界の何よりも嬉しいものでした。さっきまでより月明かりが優しくなった気がします。そしてそれからどちらからともなく体を離して、私たちは歩き出しました。近付いたのはきっと、距離だけではないのでしょう。私が彼の手にそっと触れると、彼は優しく私の手を握りました。それがどうしようもなくいとしくて、私は初めて涙を零しました。だけど、その涙は今までのどの涙とも違っていました。私の中のありとあらゆる感情が一斉に集まって心を潤しているような、そんな不思議な涙でした。私たちは、歩き続けます。たとえこの道がいつか分かれようとも、彼は私が本当に愛したひとでした。忘れられないひとでした。私の、最初で最後の恋人でした。




は言えなかったし聞きたくなかったのです 「さようなら」




それがただの我儘だったとしても

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