はんぶんこの姉と弟



 雪の目覚めは日の出とともに訪れる。
 どんなに前の晩に夜更かししても、どんなに身体が疲れていても、光や匂いや空気や、そういった朝を告げるすべてが雪の本能を揺さぶるのだ。眠っている時でさえ、頭の片隅が常に起きている。完全に熟睡することができたのは、記憶がないほど幼かった頃だけだろう。
 身体の半分はオオカミ―――弟の雨になんかに言われなくても、忘れた日など一度もなかった。どんなに雪が人であろうとしても、彼女の常人離れした嗅覚が、聴覚が、自分は人ではないのだと思い知らせてくる。
 遠くさえずる鳥の声を聞きながら、雪はそっと布団を抜け出した。腕や背中の疼痛に顔をしかめ、音もなく縁側から飛び下りる。
 山の稜線の向こうから太陽がわずかに顔を出していた。広がっていく朝日が山間の稲や野菜を光り輝かせていく。
 雪はまぶしさに目を細めながら、母の畑に立った。
 こうして雪の気配を残しておけば、山の動物たちは近付いてこない。
「雪」
 雪は振り返らなかった。ずっと前から、それこそ雪が起き出した時から、雨が耳をそば立てこっそり後をついてきていたことに気付いていた。
「雪」
 淡々とした声だった。感情を爆発させやすい雪とは正反対で、昔から弱虫で内気でうじうじしていて、感情を胸にしまいこむタイプだった。成長するにつれ、ますますそれが顕著になった。
「雪……傷、痛む?」
「ばかじゃないの、そりゃ痛いわよ!」
 眦を吊り上げて勢い良く振り向けば、弟はわずかに目を見開いて、かろうじて驚いた顔を作り出した。それがさらに雪の神経を逆なでする。
 弟が人間の部分を捨て、どんどんオオカミに近付いていくのがわかっていた。雪だからわかる。姉弟だからわかる。この地上でたった二人だけしかいない同じ生き物だから、わかる。わかってしまう。
「痛いわよ。遠慮なくやってくれちゃって、女の子の身体に傷が残ったらどうするのよ」
「ごめん」
「一回勝ったくらいでいい気にならないでよね。この畑だって、私がいたから守ってこれたようなものなんだから」
「うん」
「それに気付いてるんでしょ。母さんのこと」
 ―――ダメだね私。お母さん失格だね、と。
 夜中、父の写真を見つめながら、ぽろぽろと涙を流していた母。母は、本能剥き出しにして目を光らせていた雨のことを、ほんの一瞬でも戸惑ってしまった自分のことを、責めていた。いつだって笑顔を絶やさない人が、こっそり涙していることまで気付いてしまうのは、この忌ま忌ましい身体のせいだ。
「これ以上、母さんを悲しませないで」
 再び山のほうを向き、かたい声で告げる。返事はない。
「勝手にどこか行ったら許さないから」
 やはり返事はない。かわりに隣に、雨が立った気配がした。
「許さないから。絶対だから」
 けれど心のどこかでわかっていた。雨はそう遠くないうちに雪の前から姿を消す。
 母は自分たち姉弟の味方だ。でもこの言いようのない恐怖だとか持て余す能力だとか、うまく言葉にできない感情をわかりあえるのは、この弟だけなのだ。

『あめー! はやくはやく! あっちですごいものみつけたの!』
『ゆき、まってよぉ! おいてかないでよぉ!』

 遠い日の自分たちの声が脳裏に蘇る。一緒に走り回っていた土の匂いを思い出す。
 結局、雨は何も答えなかった。かわりに自分の手を握ってきた手が思いがけず大きくて、知らぬ間にひとりでさっさと大人になってしまったみたいで。
 雪は涙がこぼれないよう、きつく唇を噛み締めたまま太陽を睨んでいた。




 だから雪は怒っているのだ。自分に一言の挨拶もなく、山に行ってしまった弟のことを。
「もう雨のことなんか放っておいて一緒に町へ行こう!」と母を誘うのだけれど、母はにこにこ笑うだけで聞こうとしない。
 しかも長期休みに学校の寮から家に戻ると、母はいつものように笑顔で、「最近、この辺りで動物の畑被害が減ってるみたいなの。やっぱり雨のおかげかしら」なんて言うのだ。まったく嫌になる。
 それから3年が経ち、4年が経ち、高校生の夏休み。バス停から降りた瞬間、ポツンと雨粒が頬にあたった。見上げれば空は分厚い雲に覆われている。山の麓でも濃い雨の匂いがすると思っていたが、山の中腹になればさらに天気は移ろいやすい。
「母さん、ただいま!」
 一気に雨脚が強くなり、慌てて家の中へ飛び込む。
 古い家屋はしんと静まり返っていた。庭を見ると母の車は停まっている。納屋にでも行ったのだろうか、それとも畑を見に行ったのだろうか。一度外に出てみようと踵を返しかけた時、視界の端に倒れている母が映った。
「母さん!?」

 原因は心労と疲労―――ここ数日の話じゃない、それこそ何年と積み重なったものだった。
 近所の―――といってもせめて自転車がなければ往復はしんどい場所だが―――おじさんおばさんから、とりあえず安静にさせておくべきだろうと言われ、薬を飲ませて布団に寝かせた。額に触れれば燃えるように熱い。熱が引かないようなら、天気の回復を待って麓の診療所まで連れて行かなければいけない。
 外は4年前を思い出すような土砂降りだった。
「……ん? 母さん、何? 水?」
 不意に母がうわごとを言った気がして、その唇の動きを凝視する。音は聞こえない。けれど確かに何か言った。

 あ、め―――。

 雪はゆるゆると瞠目した。
 奥歯を噛み締め、手が白くなるほど強く握り締め、次の瞬間、決意とともに背後を振り返った。
 走り出す。
 大股で畳を蹴る。裸足のまま玄関から跳び出し、水たまりがしぶきを上げる。
 走る。走る。前屈みになった一瞬の後、手は前脚となって地面を蹴りあげた。咆哮する。雪が完全なオオカミの姿になったのは4年ぶりだ。けれど走り方は忘れていない。忘れていない。大粒の雨に目を鋭く引き絞り、森の中へ飛び込んだ。
「雨―――っ!」
 声を張り上げ、岩から岩へと飛び移る。
「雨! どこなの!? 返事して!」
 雪は勝手に山へ行った弟を怒っていた。どこかに行くなら行っちまえと、母のように弟を探そうとなんて思わなかった。けれどもう限界だ。一言言ってやらなければ気が済まない。
 逃げ出そうとしたネズミを見つけ、牙を剥く。
「噛まれたくなければこの山の主を呼んで。雪が来たと。唯一無二の同族が来たと伝えなさい! 早く!」
 再び森の中を突っ切る。決して走り方を忘れてはいないが、久しぶりの獣型は、やはり身体がどこか鈍っていることは否めない。舌打ちし、倒れていた木を飛び越えた。豪雨はさらに降り続く。感覚が研ぎすまされていく。
 やがて森の中心に大木が見えた。その影から現れたオオカミの姿に、低く唸るように言葉を絞り出す。
「雨」
 それは既に雪が知っている雨ではなかった。自分の庇護を必要としていた小さな弟でもなかった。それは―――堂々たる山の主だった。
「雨? 雨よね。返事をして」
 けれどオオカミは静かな目で雪を見据え、そのまま口を開こうとしない。
「雨、母さんが倒れたの。うわごとであんたの名前を呼んでるのよ。お願い、帰ってきて。母さんに姿を見せてあげて」
 それでもやはり、オオカミは何も言おうとしなかった。
「……もしや言葉を忘れたの? 私がわからないの? ねぇ、雨!」
 焦りが募る。降り注ぐ雨が次第に視界を塞いでいく。目の前の弟が、遠くなっていく。
 雪は脚に力を込め、ふわりと立ち上がった。身体が身震いするように変化する。人の姿になると同時に、首にかけていたワンピースが膝まで落ちた。
 対峙する。人の姿で。
 ―――けれどついに、オオカミは何も語らなかった。
 雪はぎゅっとスカートの裾を握った。もはや心を巣食うのは怒りではなく、ただただ雨粒のように降り注ぐ悲しみだった。溢れ出しそうになる涙を必死に堪えて踵を返す。その背に、懐かしい声が響いた。

「雪、母さんを、」

 目を真円に見開いて振り向く。だが既にオオカミは遠く先を歩き、そのまま森の中へと消えた。
 ―――雪、母さんを、頼むね。
 次の瞬間、遠く地響きが山を揺らした。




 家へと戻ると、軒先から顔を出す母の姿が見えた。
「母さん!」
「雪! やだ、びしょ濡れじゃない。ちょっと待ってね」
 いつものように自分のことを気遣う母を慌てて止める。
「そんなの大丈夫だから! それより熱は!? いいから寝てて!」
「うん、ありがとう。山から音がしたからちょっと気になって」
 その言葉に振り返った先、山が大きく削れ、茶の土がむき出しになっているのが見えた。―――土砂崩れ。雪たちの家の方角に崩れたそれは、だが途中で別の方向に曲がっている。不自然に、まるで誰かが意図的に仕向けたように。
 誰がやったかなんて、言われなくてもわかってる。
 ぼろりと、ついに目から涙がこぼれた。ひとつ落ちれば、もう止めることはできなかった。後から後から落ちてくるそれを、雨が洗い流していく。
「雨なんか……、雨なんか、だいきらい」
「雪」
「勝手にいなくなって、私に断りもなくいなくなって……、っく、わたし、わたし怒ってるんだから、だから」
「うん」
「……っく……、ひっく、うわああああああん」
「……うん、そうだね。雪は雨がだいすきなんだもんね。大丈夫、わかってるよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
 母がやさしく雪の頭を撫でる。
 山から遠吠えが響いている。大声で泣きじゃくりながら、頭の後ろでその力強い声を聞いていた。




 翌朝、空は抜けるような青空だった。
 まだ微熱がある母を無理矢理寝かし付け、雨戸をはずし、雨漏りを拭き、母のために卵粥を作る。ひとりで大騒ぎして、台所をめちゃくちゃにしてようやくできたその粥を、母はうれしそうに、おいしいと言って食べてくれた。
「ねぇ母さん。母さんがここにいるのは、やっぱり雨のため?」
 縁側に座り、足をぶらぶらさせながら空を見上げる。背後で布団から起き上がり、粥を食べていた母が、くすりと笑ったような気がした。
「私がね、ここが好きなのよ」
「でも雨のためでしょう?」
「うーん、もちろんそれもあるけど……。勝手にね、雪のためにもなったらいいなーなんて思ってる」
「私の!? なんで!?」
 勢いよく振り向けば、風が通る座敷の先、母がやわらかな笑顔を浮かべている。
「もしもあなたに大切な人ができて、その人との子どもを育てたいと思った時、この土地がきっとその子をのびのびと育ててくれるんじゃないかなって。そう思うの」
 不意に脳裏に浮かんだ光景―――小さな雪と雨が家の中を走り回っている。いや、あれは自分の子どもだろうか。響く笑い声に、雪はゆっくりと微笑む。
 そんな雪を見て、母は小さく「ごめんね」と呟いた。「ごめんね雪。昔から、あなたにはお姉ちゃんだからって我慢させてきちゃったかもしれないね」
「そんなことない。雨は私の弟だもん。住む場所は違っても弟だもん。……まだ怒ってるけど。あいつがきっちり謝ってくれるまでは怒ってるけど!」
「あはははは! そうねぇ、どうかな。雨も雪と同じで頑固だからなぁ」
「謝らせる! そして私が大切な人を連れてきたら、きっちり祝わせてやるんだから!」
 雪は庭へと走り出す。人間の足で大地を踏む。

「雨の、ばかやろおおおおおお!」

 届け、届け、私の声。
 笑ったその先に、青い夏が広がっていた。