クリスマスの指先



 夏野は夏が苦手だ。
 せっかく名前に「夏」が入っているのにもったいないとからかえば、本気で頭を叩かれた。自分と他との境界線が消失していくような、どろりとした空気が嫌いなのだという。なるほど、どこか潔癖のきらいがある夏野らしい。頭痛がする、暑い。とにかくこれが、夏の間の彼の口癖になっていた。暑さで思考回路が停止するのも気に喰わないと、分厚い参考書を広げ、アイスを銜えながら心底嫌そうに呟く。「―――早く冬になればいいのに」
 そうして今、世界は夏野のお望みどおり、冬になった。
 身を切るような極寒に、徹は思わず首をすくませた。今冬一番の大寒波。ただでさえうら寂しい山間の村のこと、夜にもなればずっしりと重たい冷気が地上を這い、身なんて引き締まり過ぎて一歩も動けないような状況だった。躊躇する弱い心だとか足だとかを叱咤し、北風吹き荒れる夜道を駆け抜ける。草を踏み締め庭へと入り、ぐるりと回って目当ての窓へ。
 そっと中を覗けば、部屋の主は机に突っ伏して眠っていた。積みあがった参考書と、転がるシャープペンシル。こんな時間まで勉強していたとは、まったく相変わらずだと肩をすくめる。手を伸ばせば窓はあっけなく開いた。この地域で鍵をかける家はまずない。窓の桟にひょいと足をかけて、不法侵入ごめんなさい、と心の中で一声。
 夏野は夏が苦手だ。空気が凛と澄んだ冬を好む。極度の暑がりで、けれど別に余分な脂肪は一切ないし、ついでにどちらかといえば低体温。
 まさにその夏野は、ジーンズに白いシャツ一枚という見るからに寒そうな出で立ちで、机に突っ伏し眠りに落ちていた。時折、この格好で外に出ることもあるから恐ろしい。ちなみに参考までに記しておけば、徹の冬の室内着は、綿がぎっしりの半纏がマストアイテムである。
「あーあ、風邪引くぞー」
 思わずぼやいて辺りを見渡す。けれどやたら物が少ない殺風景な夏野の部屋に、あったかそうな服は見当たらない。ふと思い付いて自分の頭にのせていた赤い帽子を取り、癖毛の黒髪にかぶせてみる。……あ、なんだかコレは新鮮だ。嫌そうに顔をしかめている寝顔と、大きめの白いボンボンのミスマッチぶりがなんとも可愛らしい。
 なんてほのぼの見つめていたら、夏野の目がゆっくりと開いた。けだるそうな様子で、瞬きを一度、二度。そこでようやく自分がうたた寝していたことに気付いたのか、深いため息とともに身体を起こす。同時に、夏野の頭上のボンボンも小さく揺れた。
「夏野、そんな格好で寝てたらダメだろう」。人さし指を立ててビシッと言う。ここはやはり頼れる徹兄さんの出番だろう。何しろ風邪を引いてからでは遅いのだ。
 徹を振り返った夏野は、まだ寝ぼけた顔でじっと徹を見つめた。覗き込むような無防備な漆黒の瞳。次いで頭上にある何かに気付き、怪訝そうに手を頭へとやった。そうして手の中に現れた赤い帽子の意味を咀嚼すること数拍。思考回路の接続と同時に、眉間の皺が一気に深くなった。
 結城夏野の覚醒である。
「……徹ちゃん。そんな格好でこんな場所で何してるわけ?」
 ………………うん?
 夏野の言葉に自分の姿を見下ろせば、赤い服に大きな袋。ついでに口元には白ヒゲのオプション付き。
「ってああああああ! サンタでこっそり大作戦をやろうと思ったのに!」
 夏野のうたた寝に気を取られて、ついうっかりと当初の目的を忘れてしまった。頭を抱えながら「ああああー」とショックに打ちひしがれていると、真冬の夜よりも冷たい絶対零度の声が頭上に降り注いだ。
「徹ちゃん…………、あんたバカだろ」
 ………もはや返す言葉もございません。



 ことの発端は、夏野の家にはサンタが来たことがない、という話だった。
 いずれ現実を知る日が来るならば初めから虚構を見せることはない、というのが夏野の両親の言葉らしい。なるほど、実にあの人たちらしい発想だ。けれどいつか覚める夢だとしても、イブの夜にわくわくしながら眠りにつくのは子どもの特権だと徹は思うのだ。楽しさと興奮と、この世に残されたちょっとした不思議を覗くようなドキドキ感。徹の家にだって、自分や妹弟たちが小学生だった頃はサンタが訪れていた。朝、目が覚めて枕元のプレゼントを見た瞬間の嬉しさ。あの言葉では説明できない喜びを夏野にも味わってもらいたいと思った、ただそれだけだったのだが。
 結局、冬の夜に良い子の家に不法侵入したご近所住まいのサンタクロースは、冷たい床の上に正座することになった。
 いや別に正座しろと言われたわけではないけれど、何やらこれが自然の流れだった。一方、結局赤い帽子をかぶったままの部屋の主は、ベッドに腰掛けて足を組んでいる。これもまた自然の流れで、しかもこの構図がなんともナチュラルなことが泣けてくる。ちなみにこんなにも腕組みと足組みが似合ってしまうこの家の「良い子」は、現在まだ中学三年生のはずである。……たぶん。
「……まぁ、事情は説明してもらわなくても、なんとなくわかる」。重々しい言葉に、なんだか自分が判決を待つ被告人になった気分だ。サンタなのに。
「あ、で、でもサンタ大作戦は失敗したけど、ちゃんとプレゼントはあるんだぜ?」
 慌てて袋から箱を取り出す。裁判長に贈り物なんて立派なワイロだけれど、自分はサンタなんだ。問題ない。
「ちょっと見た目は悪いけど、味は保証するから」
 いびつな形のイチゴのデコレーションケーキ。
 それをまじまじと見つめた夏野は、深くため息をついて床にしゃがみこんだ。途端、夏野との視線が近くなる。相変わらず整った顔立ちだなと思ったら、
「………徹ちゃん、やっぱバカなの?」。諭すように言われた。
「う…っ! 本日まさかの二回目!」
「だってこれ、枕元に置いておくつもりだったんだろ? 冬だとはいっても保冷材もなしに? 生クリームを?」
「あー……、そういわれればそうだなぁ」
 にへら、と笑うと、もう一度深いため息が容赦なく降る。
 そうして夏野は、その長い指を躊躇なくケーキへと近付けた。
「……甘い」。クリームのついた指先は、夏野の口の中へ。
「え、手づかみか!?」
「この部屋にフォークなんてあるわけないだろ」
 そうして再びケーキの一角を指で崩した夏野は、ひょいと口に放り込む。唇についたクリームを舐めとり、「……ちょっと甘過ぎるけど、うまい」
「だろ!? すっごいがんばったからな」
「でもメリークリスマスのスペルが違う。Rがひとつ足りない」
「ああああそれを言っちゃうか夏野よ」。このアメとムチ攻撃はさすがすぎて泣ける。
「俺、今お返しできるようなもん何もないんだけど、英語の単語帳持ってく?」
「慎んで辞退させていただきます」
「そう? じゃあお返しに」
 何気なく差し出された指には真っ白な生クリーム。
 驚きに瞬くこと一拍。くしゃりと笑み崩れた徹は、ゆっくりとその指に口を近付けた。
「いただきます」

 冷たい指先はひどく甘くて喉を焼く。あー、やっぱり砂糖入れ過ぎちゃったかな。でも任せておけ夏野よ。来年はスペルも砂糖の量も間違えない、完璧なケーキを作ってやるから。
 思わず抱きしめてしまったのはきっとそのせいで、驚きに硬直した身体は思った通り冷たかったけれど、そのうちじんわりあたたかくなると思うんだ。
 だからもう少し、このままで―――。









 冷たい指先はひどく甘かった。甘たるく、喉を焼いた。
 口から引き抜かれた指から鮮血が飛び散り、けれどその傷はあっという間に塞がっていく。
「もういいだろ」
 光を通さないどこまでも堕ちるような漆黒の目。その向こうで獣のような赤い光が放たれている。きっと自分も同じような目をしているに違いない。唇に残っていた血を舌で舐めとれば、舌先に再び濃厚な甘さを感じた。
 今、世界は冬だ。冬なのだという。けれどその寒さはわからない。
「結局、夏野のところにサンタは来なかったなぁ」。ひとりごちれば、眉根をひそめた怪訝そうな顔がこちらを向いた。……ああ、でも夏野は人狼だから。
「朝を迎えられるのか」
 もしかしたらとても楽しくて喜びに満ちているかもしれない朝を。
 思わず抱きしめてしまったのはきっとそのせいで、何も言わない夏野の身体はひどく冷たい。まるで死人のようなその背中に腕を回して、ぎゅっと力を込めて。そうしたら、そのうちじんわりあたたかくなると思うから。きっとあたたかくなると思うから。だから。

 朝が来るその時まで。もう少し、このままで。